同年秋季キャンプ、前述の面接の5日後から野村監督の発案により投手に挑戦し、二刀流と呼ばれた。翌1999年のオープン戦の巨人戦で登板した時は球速143km/hを記録し、当時新人だった打者二岡智宏を内野ゴロに打ち取った(元木大介:二飛、二岡智宏:遊ゴロ、後藤孝志:中飛 で1イニングを三者凡退)。しかし慣れない傾斜のあるマウンドからの投球の繰り返しで左膝を痛め、わずか数試合で頓挫。公式戦出場が開幕に間に合わない結果となってしまった。新庄の投手挑戦について野村監督曰く「(打撃時に活かせるよう相手である)投手の心理を理解させるため」ということだが、阪神OBや野球解説者からは反対の声も多く寄せられていた。もっとも野村監督は当時、「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある」、「あの返球を見たら、誰でもピッチャーをやらせたくなるだろう。下半身の使い方をおぼえたら150キロは出る」等とも語っており、真の意図は明らかではない。高速バス TDL 1999年6月12日の巨人戦(甲子園)で槙原寛己投手から敬遠球サヨナラヒットを放った(その時のランナーは後に再び同僚になる坪井智哉)。 一球目、外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、二球目の同じような投球を三遊間を抜いてレフト前へ転がした。 「ショートが二塁ベース上に守っていたのを見て、三遊間に転がせば抜けると確信した。甘い球が来るうようにしないといけないので打席の後ろの方に立っていた。打つ時にいつもの足のところに踏み出した」という。巨人側から、打った際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており規則違反ではないかと抗議があったが、判定した審判員の田中球審は出ていないと明言したと報道された。野村監督をして「アイツは宇宙人」と言わしめる。このプレーについては、後のテレビ番組で「柏原純一打撃コーチと事前に練習していた」と語っている(柏原も現役時代に敬遠球を打ち、本塁打にした経験がある)。高速バス 広島 この敬遠球打ちの練習に関しては実行3日前の広島戦で敬遠された際に、バットを出せば届くのではないかと感じ、尻無浜啓造打撃投手に依頼して大きく外された投球を打つ練習を行っていたと実行後に報道された。なお実行前の日付のスポーツ新聞でも新庄が打撃練習で大きく外された投球を打っている写真が掲載されている。 後にこの敬遠球打ちを振り返るテレビ番組で新庄は、予め柏原コーチを通して野村監督に敬遠球打ちの許可をとっていて状況により実行許可の場合はGOサインを出してもらえる様に打合せていた。そして(延長12回裏同点阪神一死二塁の前打者3番今岡誠の打席中にバッテリーミスが起こり走者坪井が三塁進塁したため今岡、新庄共に敬遠される事が予想された際に)柏原コーチが野村監督に許可をとり、新庄の一球目の見逃し後にGOサインが出された。その時の柏原コーチが出したサインが打ち合わせていたものよりオーバーアクションだったため、相手チームにばれないかと焦ったと語り振り返っている。なお後年のテレビ番組で野村監督は、新庄の敬遠球打ちの許可を出す際に、敬遠球を打つ事が対戦相手に対しての野球モラルに反してしまわないか迷ったとも語っている[29]。 新庄は敬遠球を打つのはこの一度きりと決めていたと語ったとの報道があったにも関わらず、翌6月13日の同じく巨人戦試合前打撃練習でもまた大きく外された投球を打つ練習をしていたと報道されている。高速バス 横浜 なお、この日の試合では代打を出した関係で内野手が足りなくなり、途中から二塁の守備に就いていた。その日のヒーローインタビュー(インタビュアー:読売テレビアナウンサー尾山憲一)で「明日も勝つ!」と言ったが翌日は見事に敗戦。1999年9月10日の巨人戦で決勝本塁打を放って、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と発言するも、翌日から球団タイ記録の12連敗を喫した。パラオ ダイビング 1999年のオールスター戦でホーム用ユニフォームにビジターの黒帽子で登場、自身初MVPを受賞する。これが、翌2000年から(それまでのホームの)縦縞の帽子を廃止させるきっかけとなったと言われている。また新庄は2000年に、それまで使用されていたビジター用のユニフォームのデザインに意見し、ビジター用のユニフォームから縦縞を無くさせたと言われている。高速バス 格安 阪神の外野守備について1999年に外野守備走塁コーチを務めた福本豊は後年のスポーツドキュメンタリー番組「ZONE」(東京放送(TBS))で、当時の外野手陣の中において走者がいて補殺を狙える場面での外野への打球で肩の強いセンター新庄が捕球出来る場合は優先して捕球を譲るという取り決めをしていたと語っている。それが顕著に表れたのが2000年5月25日の中日戦(甲子園)。同点で迎えた6回表中日無死一三塁(投手:川尻哲郎)の場面で打者レオ・ゴメスが打ち上げたレフト定位置付近への飛球を、レフト坪井が一旦入っていた落下点から離れた所にセンター新庄が走り込んできて捕球してそのままワンバウンドでバックホームし走者李鍾範を補殺し併殺にしたプレーであると番組は触れている。 このプレーについて新庄はスポーツバラエティ番組「ナンだ!?」(テレビ朝日)で落下点に入っていた坪井に「どけー!」と声をかけて自分の到達を知らせたと語っている。 またこのプレーについての報道によると、同シーズンの以前の試合内で一度、新庄が打球に追い付いていたにも関わらず坪井が捕球しバックホームしたが間に合わず致命的な得点を許してしまった事が伏線になっていたとの事で、別の報道で新庄は「ああいう高く上がった打球は自分が捕るって前から坪井と話をしているから。打球が左に流れたからどうかなと思ったけど」と語っている。 結局この試合は阪神が2-1で勝利し、試合後インタビューでこのプレーについて野村監督は「あそこがすべてだったな」。また敵将である中日・星野仙一監督も「まさしくプロのプレー」と絶賛したと報道される。 2000年9月30日の広島戦(甲子園)で、9回裏に紀藤真琴から、初球でサヨナラホームランを打った。これが阪神時代最後のホームランとなった。石垣島 ダイビング かつて新庄が憧れていた選手はダリル・ストロベリー。そのため1992年オフに背番号を63から変更する際に、本当は第一希望の1かストロベリーのつけていた44をつけたかったと自著エッセイに記している。しかし両方とも空き番ではなく結局は5に落ち着いたが、もし44になっていたらランディ・バースやセシル・フィルダーなどが築き上げた「阪神の背番号44は強打の外国人」というイメージを大きく変えたかも知れない。本人は、「カクカクしているから自分に合っていると思う」とコメントしていた。SEOとは 「ジーンズがはけなくなるから」という理由で下半身のウエイトトレーニング拒否を宣言していた。しかし阪神時代の途中から怪我防止のために考えを改め実際トレーニングをしてみると下半身は太らない体質だという事がわかったと自著エッセイに記している。理想の体型は公衆トイレに多く表示されている男性用のマーク(男性の体が逆三角形にデザインされている)との事。ただ、トレーニングはあくまでも野球のためであって、見せるためだけの体づくりとはトレーニングのやり方が違うとも記している。また、ランナーとしての瞬発的なスピードを維持するために、あえて長距離走の訓練を避けたということらしい。なお、アメリカで肉離れを起こしてからはそれを補うためにジーンズを辞めてまでハードな筋力トレーニングに取り組むようになっている。ビジネスホテル大阪 プロ4年目に年俸が2200万円(推定)になったので、新庄は約2000万円のベンツを購入。残った200万円で生活をしようとしたが、税金のことを忘れていて、結局、叔父に助けてもらったとのこと。 阪神では広沢好輝、桧山進次郎、坪井智哉など仲の良い選手が多く、また若手当時の今岡誠によく食事をおごっていた。今岡は新庄の影響で現在は自らが若手にごちそうしているとのこと。また、井川慶にもプロ初先発の前夜に高級寿司をおごっていて、井川は今でもその時の感謝を口にする。 2000年から阪神は甲子園で行われるホームゲームで自チーム野手の打席入り時毎に個々が指定するテーマ曲を流している。新庄は福山雅治の「HEAVEN」、宮古島 ダイビング シーズン途中からは新曲「桜坂」を使用し、後者が阪神在籍最終年においてテーマ曲として定着する。関係者を通してこの話を聞いた福山は自身のコンサートでステージのバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し感謝の意を表している。この交流を機にか同じ長崎県生まれでもある二人は親しい間柄となる。セブ ダイビング 1995年オフに藤田平新監督(当時)との確執により中日へのトレードを自ら勝手に打診するも、就任したばかりの星野仙一監督に説得され残留。そして2000年のFA時にその中日から声が掛かるも拒否。理由は「名古屋の街が好きじゃないから」。当然星野は激怒した。そういった経緯からか、2003年、打撃不振でマイナーに落ちていた新庄の日本復帰が囁かれ、記者の「阪神は獲得に動きますか?」という問いに、星野監督は「獲っても使うとこがないだろ」と言い捨てた。大阪ビジネスホテル FAで阪神からメジャーに移籍する直前、2000年シーズンの打率2割7分8厘、本塁打28本、打点85という成績の評価、人気選手の放出を引き止めようとした阪神球団が提示した年俸は5年12億円(推定)という破格のものであった。それに対しニューヨーク・メッツが提示した年俸はわずか2200万円(推定)であった。上記の中日以外にもヤクルト、横浜が獲得に興味を示して契約交渉を行った。一時はヤクルト入団の報道もあった。そして2000年12月19日に記者会見で、「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団はニューヨークメッツです」と語り発表した。大減俸となってのメジャー挑戦であることから阪神ファンもメジャー移籍を好意的に見る者が多い。本人は照れ隠しなのか「金額の桁を間違えて契約をしてしまった」と語っている。 MLB時代 メッツに行きたかった理由は「メジャーで活躍して有名人になりたかったから」と『いつみても波瀾万丈』(日テレ系)に出演した時に語った。ただしそれはメジャーに行きたかった理由であるにすぎず、低年俸でもメッツにした理由は、「何事につけ目立つ首都のニューヨークに行きたかったから」。(アメリカの首都はワシントン.C.である)